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日本人は老いるということを恐れ過ぎていないだろうか?段々と体は弱り、腰や膝が痛くなって歩けなくなり、意識が薄れ、無くなってしまうのです。それを子どもたちに迷惑をかけたくないとか、お金を負担させたくないとか。
老いることについて知ろうとせず、目を覆ってしまうのかもしれません。しかし老いは誰にでも訪れます。財産を子ども達のために残そうとか、葬式代の負担はかけたくないとか、自分の老後の為にお金を残そうとか。計算では老後の資金は2,000万円ぐらい必要だと言われています。残された子どもに迷惑をかけたくないという思いは、今のお年寄りに常にあるのはないでしょうか。しかし人間という者、生きとし生けるものは常に老化し死んでいく運命にあるのです。
老化とは、今まで何気なく出来ていたことが出来なくなる、自分で考え行動することが億劫になる、やる気がなくなる、歩けなくなる、その他色々な変化が現れるのです。そして生命の衰え、力の衰えが如実に現れてくるのです。この衰えに悲哀を感じだすのが老化の始まりなのです。200年以上生きた人はいません。常に老化し、死へ近づいていくのです。しかし私たち人間は違う方向に努力しようとします。
それは、少しでも若く、元気に見せようとする努力です。その努力は認めますが、それが行き過ぎているのではないかと思われる節が見受けられます。それはサプリメントの多用です。世の中にはあらゆるサプリメントがあります。シワ、シミを取る塗り薬・飲み薬、肌が若返るクリーム・石鹸、その他膝・腰痛を改善するプロテイン等数え上げればきりがありません。まさにTVショッピングで喧しい、喧しいこと大変です。元気で歩けるお年寄りを探してきて、その効果を宣伝することおびただしい限りです。そこにお金の為に出ているのか、昔の女優や昔の男優が、次から次へと出演して私たちの夢をぶち壊しています。その商品の効果がなかったらどうするのでしょう。誰が責任を取るのでしょう。その商品を宣伝している人達は責任を取るべきなのです。昔の有名な歌手がサプリメントの宣伝に出演していたのですが、脳梗塞になって以来その宣伝に出ていません。その歌手のことは嫌いではなかったのですが、その宣伝に出るようになってから嫌いになりました。まだ宣伝に出演してお金が欲しいのか?と思いましたが、そんな芸能人がたくさんいます。もっと私たちの夢を壊さず、上手に老いられないものか?人間の成長度合いの程度が低すぎて嫌になります。男前でなくなった男優、綺麗さが無くなった女優、声が出なくなった歌手等々、色々な方がTVショッピングを賑わせています。これもうまく老いられぬ、人は老いるものだという人生観から外れている方達ではないかと思うと情けなくなります。
日本人はいつから老人を馬鹿にする民族に成り下がったのでしょう。お年寄りを軽蔑する、馬鹿にする芸が横行しています。ある漫談なんか聞いていられません。それを日本の若者や大人たちは面白がっているのです。それもいつかは自分もそうなるのにです。数年後の自分なのです。
社会に対して大きな貢献をしてきた老人をもっと尊敬する社会にしなければなりません。お金ではないのです。ゆとりある生活、ゆとりある受容力を持った人生を築くべきなのです。無駄を削り取る生活、合理的な生活、あげくは老人、年寄りを無駄として捨て去る社会となっていくのではと心配になります。なんと寂しい社会なのでしょう。そんな社会でいいのでしょうか?そんな社会を目指しているのでしょうか?いたのでしょうか?私はそうではないと信じたい。若者は老人を大切にし、尊敬し、老人の知恵を生かし共に暮らせる世の中になったらとてもいいなと常々思います。その為に人間は自分自身の人生観を持って、自分の人生を築き、自分らしく老いなければならないと思います。世の中で決められた定年で引退するのは早い。引退はない?常に我々は現役なのです。その気構えこそが我々に求められているのです。老人をケアするのは施設だけではなく、老人が人間らしく生きられる社会にすることなのではないでしょうか。
ラブ小松
不動産遊民
都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)
私の子どもの頃の太陽は、お日様ぽっかぽかと言って非常に気持ちの良いものでした。夏休みになると、真っ黒になるまで外で遊んで、ランニングシャツのあとがくっきりと残るぐらい日焼けし、皮がむけたものです。海水浴は2回ぐらい行けば風邪をひかないと言われ、必ず家族で自転車に乗って安宅の海岸や加賀舞子海岸へ行きました。特に加賀舞子海岸では、水深2メートルぐらいの所にハマグリがいて、水中眼鏡で透き通った水越しに見え、よく採りました。そして海岸の木片を集めて焚火をし、採ったばかりのハマグリを焼いて、パカッと口を開けたところに醤油をかけて食べました。砂を噛んでジャリっと口の中に音がしても美味しかったことは、今でも食感として残っています。昔の海岸線は遠浅で、かなり沖まで歩いていけたのですが、今は陸から急に深くなり、ハマグリも全くいません。ユンボでハマグリを採り尽くしてしまったことが原因ということでしたが、今はどこもかしこもいなくなったようです。
それは気候変動、環境汚染の影響が大きいようです。まず私たちの子どもの頃より日差しが強くなっています。最近の太陽光線は紫外線が強く、ジリジリと肌が焼けるようです。その上、雲が一切なく快晴の日が多いです。昔は夏の空に入道雲が大きくもくもくと出ていたのに、今は小さくなったように思います。また、夏の夕方には夕立があり、ハスの葉を傘にして家に帰ったものですが、今はなくなりました。ここ数年の気候は、雨が降り始めると異常な土砂降りとなることが多いように思います。日本だけではなく、世界的に見ても、雨が降ると土砂降りとなり、洪水が発生するというパターンが日常化しています。梯川は拡幅改修されましたが、梯川の水位が以前よりも上がっているように感じます。その為、短時間の降雨で洪水、水害にたやすく結びつきます。私が住んでいる町は、床上浸水が1回、床下浸水が5回程あり、雨が続くと八丁川があふれるパターンでした。令和4年8月の洪水は、梯川が氾濫するということで、支流のポンプアップのポンプを全て止めてしまった為、被害が甚大なものとなりました。河川の改修は立前では100年から200年に1回の降雨に備えるということだったのですが、今の様子では100年に1回どころか毎年心配しなければならなくなっているようです。
また、降雪量が実に少なくなっています。私たちの子どもの頃は、冬は長靴を履き、50cmの積雪は当たり前でした。「38豪雪」の時は、平野部で2メートルから3メートルもの積雪があり、平屋の家などは屋根から積もった雪を放り上げていました。平年は雪下ろしをしていますが、私は雪下ろしの名人で、いつも近所の家を手伝っていました。この38豪雪の翌年に我が町は床上浸水しました。山に残っていた雪が、梅雨の長雨で一気に梯川に流れ込み、洪水となりました。大雪の翌年の夏は洪水が起こる可能性があると予測ができたのです。しかし今の降雨量は予測が難しくなっています。
私は程良い、あり余る必要がない、調度良いが一番だとかねてから言っています。そういう意味で、昔の気候は調度良かったのですが、今はそうではなくなってきています。どうしてなのでしょう。
その調度良い状況はどうして変わってきたのでしょう。これからその原因を探っていきたいと思います。
ラブ小松
不動産遊民
都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)
資本財と消費財という言葉は耳慣れない言葉と思います。まず、消費財とは毎日我々が消費し、再生できる資財のことです。それに対して資本財とは、我々が消費をすると、再生できない資財のことです。例えば石油です。石油は再生できません。無限でなく有限で約50年後、石炭は約130年後に枯渇するといわれます。
しかしこの有限の資本財を、車の燃料として使い、冷暖房を使い、プラスチックを作る原料として消費しています。石油は日本ではほぼ産出できず、サウジアラビア等の中東地域に依存しています。この有限の石油はどんどん値上がりしています。過去に1リットル40円ぐらいだったのが、今では1リットル約180円となり、これからもどんどん上がり続けると思われます。OPEC(石油輸出国機構)も将来の不足を見越して生産制限し、値上げをして対応しています。その中で日本は一番弱い立場に追い込まれるでしょう。
大変な時代が遅かれ早かれやってくるのです。日本では現状の暮らしができなくなるのです。では代替エネルギーは出て来るでしょうか、なかなか難しいと思われます。代替エネルギーとして、太陽エネルギー、水素エネルギーがあります。まだ海のものとも山のものともつかないのが現況ですが、期待したいです。
さて、私たちは今の生活を続けられないとしたら、一体どんな生活をしなければならないのでしょう。それは、資本財の石油を消費しない生活、すなわち消費財を消費する生活が求められます。具体的に言うと、それは江戸時代の生活まで遡ります。油は油でも菜種油、人間が再生できる油を燃やす、暖房は炭をおこす、木を燃やす、山へ柴刈りに行って薪を拾ってきて燃やす、そんな生活こそが求められるのです。昔は、科学肥料ではなく人糞を肥料として使い売っていました。いつもお百姓さんが汲み取りにきて穀物を代金として納めていたのです。今は人糞を浄化して川へ流し、川を汚染しかねません。今更、決して戻れませんが、なんと先祖は工夫をしていたことでしょうか。
こう考えると、現代の生活は江戸時代と比較して実に無駄の多い生活ともいえます。その上、再生できない、継続するのが難しい、どこかで行き詰まる生活です。
明治以後、地球環境が汚染され、温暖化が進んでいます。私はこのままでは今の生活が続けられなくなるという不安感が心の奥底にあります。これは今の社会の底辺に漂っているようにも思えます。私たちは自信を持って生活をしていけるのか疑問です。
今迄の人間の生活は大量生産、大量消費が当たり前でした。このスケールで経済優先の社会が未来もやっていけるのか、人間が人間らしく生活出来るか。今の教育で、消費で、所得で継続できるのか?
教育は大量生産に合った教育で、人間性を全く無視し、自分で考える、自分で思索することに慣れていないスポイルされた人間を多く育てたのかもしれません。人間らしく生きていく為には、いかに仕事をするのか、生きがいを持って生きられるのかが重要であり、社会のシステムを根本的に変えていく必要があるのでしょう。今迄良かったことがまるで正反対の悪いことになるように、全く違う考え方が求められるのではないでしょうか。どんな社会を目指すべきか常に求め続けるべきだと思います。それは自然の摂理に従い循環型の社会、すなわちサステナブル(持続可能な)社会を目指すべきです。資本財の消費ではなく消費財の消費、循環型、社会の仕組みこそが我々が今考えるべきことなのでしょう。また、各国で起きている愚かな紛争はいち早くやめるべきです。
ラブ小松
不動産遊民
都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)
広辞苑によると、科学とは、観察や実験的手続きにより実証されたデータを論理的・数理的処理によって一般化した法則的・体系的知識、また個別の専門分野にわかれた学問の総称、物理・科学・生物学などの自然科学が科学の典型であるとされるが、同様の方法によって研究される社会学・経済学・法学などの社会科学・心理学・言語学などの人間科学もあるとされています。
一方、政治は、①まつり事、②人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象。主として国家の統治作用を指すが、それ以外の社会集団および集団間にもこの概念は適用できる。森鴎外は「一は多数を相手にした為事(しごと)である。」とされています。
最近、この科学と政治が混同されていると思われるのです。
特に気象庁の気候、天候の発表の仕方です。気象庁の発表の仕方が政治的になっているように思えます。端的に言えば気象予報が常に大げさなのです。例えば、台風の予報です。この予報は常に大きく言われます。それは何故かと言うと、大きく言えば危険を察知して国民がその災害に備えるという予測からなのです。大げさに報道して被害が少なければ気象庁に対する非難は少ないでしょう。しかし、予報が外れ、予報より被害が大きいと非難轟々でしょう。だから大きく言っているのではないでしょうか?それは科学に基づくものではなく、政治によるものなのです。このことにより、国民はその報道に対して、必ず大げさに報道しているから大したことはないだろうとたかをくくってしまいます。童話のオオカミ少年の話と同じです。オオカミ少年の話は皆さんご存知でしょう。
さて、話を本論に戻しますが、今年の元旦に起こった能登半島地震の気象庁の報道についてです。この報道によると、地震の規模を示すマグニチュードは7.6で、1995年阪神・淡路大震災のマグニチュード7.3を上回る規模で、私たちの住んでいる小松市は震度5強の揺れを観測しました。その後もかなりの頻度で余震が続いています。今回の地震はマグニチュード7.6でしたが、マグニチュードの数字が2増えると、地震のエネルギーの大きさは約1,000倍になると言われています。この7.6はおそらく能登半島では歴史上なかったと思われる規模で、少なくとも有史以来、人間が能登に住んで以来なかったことではないかと思われます。
では今後起こる可能性はどうなのかと言えば、恐らく100年以上は起こらないのではないか?と思われます。何故そう言えるのかと言うと、私は77歳で体験してきているからです。私の知る限りマグニチュード7.6の地震を経験しておらず、歴史を紐解いてもそんな記録がないからです。地球上の地震の歴史は、我々人間の歴史と桁違いに長いのです。このエネルギーが溜まるには1,000年ぐらいの期間が必要ではないかと思われます。
さて、能登半島地震発生時の小松市役所の防災無線放送により、5m〜7mの津波が押し寄せると呼びかけ、多くの市民が避難しました。我町民も例外ではなく右往左往でした。私は自宅前のどぶ川と、梯川の水位を見て、5m〜7mの津波なんてあり得ないと言って町民を静めました。まず潮位が引くと、川の水位が下がるのですが、それが全然なかったのです。また、日本海は昔、陸続きだったため、水深が深い所でも150m程です。太平洋は水深3,000m越えのところもあり、水量が全く違うのです。この水量の差は津波の大きさを左右するに違いないのに、その差を科学で立証は一切されていません。歴史上小松の津波は50cm~70cmぐらいで、ほとんど記録されていないはずなのです。
2011年東日本大震災の津波は、私達の記憶に新しいと思いますが、東北の場合は昔ここまで津波がきたという記録があるそうです。これより下の所に家を建てるなという石碑があるそうです。私達は歴史を科学して学ぶべきなのです。それを無視して家を建てたり、原発を設置したりしているのです。なんと愚かなのでしょう。
大切なのは事実を把握して、科学として恐れることは恐れ、恐れる必要のないことは恐れない心を育てることです。
不動産遊民
都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)
対と絶対が対決すると争いや戦争になると前回号で言いましたが、中国故事に面白い話がありましたので取り上げます。それは、『矛盾』という言葉です。
「矛」はホコといい武器の一種です。
「盾」はタテで防具の一種です。
昔、中国の楚の国に矛と盾を売る者がいて、「自分の矛はどんな盾をも破ることができ、自分の盾はどんな矛も防ぐことができる」と誇っていました。まさに、絶対と完全の戦いです。そして、お客が「お前のその矛でその盾を突いたらどうなるか?」と言われ答えられなかったという故事でまさに『矛盾』です。絶対と完全が対決すると解決のしようがないという事なのです。絶対と完全は事と前後が整わないことであり、つじつまが合わないことContradictionなのです。
また、同一の命題が肯定されると同時に否定されることがあります。「命題」と「否定」の連語です。現実のうちにある両立しがたい相互に排除しあうような事、物、傾向、力などの関係なのです。
「矛盾概念」「矛盾原理」「矛盾対当」「矛盾律」「矛盾冷覚」等の言葉がありますが、
まさに絶対と絶対の対決なのです。
しかし、人間は絶対に相手の絶対は認めません。特に考え方や宗教において相手を認めないのです。その事により、人間は戦争を繰り返しているのが世界の歴史なのです。
なんと愚かなのでしょう。この世の中には矛盾があるという事が歴史的にも証明されているのに残念です。絶対神と絶対の神との争いが今の世界です。
日本人の多くは比較的に仏教徒が多く、国民の大半を占めています。そんな日本人に対して、絶対主義の宗教の中では日本人は無宗教だと言って軽蔑した見方をする人が多いと聞いています。これは大きな間違いだと私は思います。この戦争の多い地球上に今必要なのは、この日本人の宗教観ではないかと思うのです。あらゆる物、石ころのような鉱物にさえ神が宿る八百万の神の信仰こそが今必要なのではないでしょうか。山川草木悉皆成仏こそが現代に求められる宗教なのではないでしょうか。今、絶対神は科学によって矛盾がつまびらかになってきています。矛盾が出てきているにも関わらず、盲信しているとしか思えないほど信じています。そして、その上に他の絶対を批評しているのです。戦争にならない訳がないのが不思議です。これは相手を認める度量が求められます。その上この世は八百万の神を信じ、この物や山や川にも神が宿り、太陽にも神が宿る、八百万に神が宿り、相手や自然を大切にし、物を大切にする思想・宗教こそが今求められているのです。絶対なんかあり得ない、完全なんかあり得ない、人間なんて実に不完全なものです。失敗をする動物なのです、その失敗こそ人間を成長させる糧なのです。失敗を恐れず、失敗のない社会を目指すのです。失敗は人間がいる限り無くなりません。失敗をした時にどう対処するかが人間の価値を作るのではないでしょうか。
不動産遊民
都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)
私は絶対正しい、原子力は絶対安全だ、今世の中で絶対という言葉が蔓延しています。この絶対という言葉は一体どういう意味なのでしょうか?
広辞苑によると、他に並ぶもののないこと、他との比較対立を絶していること、一切他からの制限拘束されないこととなっています。
絶対の使われ方ですが、絶対の地位を保つ(専制君主等)、絶対の心理、決して断じて、どんなことがあっても必ず、絶対に間違いはない(自信)、絶対に許さない(復讐)、絶対安静、絶対安定、絶対安定多数、絶対音楽、絶対音感、絶対温度、絶対概念、絶対君主政体、絶対敬語、絶対権、絶対視、絶対者、絶対主義、絶対上昇限度、絶対精神、絶対単位系、絶対知、絶対値、絶対的、絶対的観念論、絶対的剰余価値、絶対的否定性、絶対等級、絶対に、絶対年代、絶対評価、絶対量、絶対震度、絶対対決等々、絶対とつく言葉は30以上あり、様々な場面で使われています。
なんと人間は絶対という言葉が大好きなのでしょうか。大好きなのはその言葉なのか?その意味なのか?どちらなのでしょう。私はこの絶対という言葉が実に限定的なことに驚かされます。絶対というと一つしかないのですが、この世は一つだけで生きていけるのでしょうか?例えば一神教です。神は絶対なりと信じてしまうと、その神以外を認めないことになります。しかし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教等、世界にはいくつもの宗教が存在しています。それらの宗教それぞれに絶対神が存在するとして、その神々が同じことを言えば争いは起こらないですが、違うことを言えば当然争いが起こります。自分が信じている神が正しい、いや我々の神の方が正しいと主張し合えば、必然的に争いが起こり、戦争になります。その信者が心の中に自分の思いを秘めておけば平和は保たれますが、一度主張し始めると、絶対と絶対がぶつかり、相譲ることなく、相寄ることなく戦いが続くのです。それが5千年以上1万年以上続く人間の歴史なのです。人間は愚かであるとつくづく思います。
ある宗教では、右の頬を打たれたら左の頬を出しなさいと言いますが、やっていることと言えば、右の頬を打たれたら左の頬を打っています。これは報復の概念です。絶対と絶対が争う皆殺しの概念が出てきます。昔、十字軍の遠征で、キリスト教徒がイスラム教徒を皆殺しにしたらしいですが、やられたらやり返すという考えのもと、歴史が繰り返されています。目には目を!のもとに。
宗教ばかりでなく、原子力の件でも絶対が盲信されています。以前志賀町の原子力発電所へ見学に行ったのですが、施設を案内してくれた北陸電力の方が、原子力は絶対に安全ですと言うのです。私は絶対安全なら何故東京の近くに発電所を作らないのか聞くと、東京の地価が高いからだと答えました。しかし送電コストのことを考えると近くの方がいいでしょうと言うと、返事が返ってきませんでした。結果的に絶対安全でなかったのは、福島の原発事故で一目瞭然です。そして浄化には、数千年の月日が必要だと言われています。
この絶対は大丈夫なのでしょうか?私は絶対に!!人間は間違いを犯す動物だと思っています。間違いを犯さない完璧な人間などいないと思っています。人は間違いを犯してそれを正すことによって成長する動物なので、ミスを犯さない人などいないと言っても過言ではないと思います。必ずミスを犯します。
それが絶対間違いを犯さないなんて…?いうのは電力会社か政治家だけなのでしょうか?
不動産遊民
都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)
まず直行便で関西空港からヘルシンキへ往き13時間の旅です。若い頃はエコノミークラスでの旅でしたが、今回はビジネスクラスにしたことで、旅費は高額になりました。その一因は円安にあります。一時期1ドル75円でしたが、現在は1ドル149円で、約2分の1の価値に下がりました。私は日本の国力もずいぶん下がったものだと心配になります。しかし、私の感覚では日本の実力は120円ぐらいが妥当ではないかと思っています。
この行き過ぎた円安の要因は、日本の政策にあると思います。今の内閣は、円安に対して何ら政策を施していません。わずかな見せかけの減税、人気とりとしか思えない政策ばかりで、根本的な政策は何らできていないのが今の政治です。民主主義は愚民政治に沈んでいると言われていますが、まさにその通りになってきているのではないでしょうか?
そのうえ旅費の高騰の要因に、ガソリンの値上げが大きな影響を与えていると思います。レギュラーガソリン1ℓあたり170円という価格は日本経済に多大な影響を与えてきており、これからもジワジワと日本の社会に影響を与え続けるでしょう。
また、これから日本人は海外旅行に行けなくなるのではと心配になります。反対に海外の人が日本に来やすくなります。今、金沢にも外国人があふれています。インバウンドと言いますが、これも円安の影響かと思われます。そのうえ日本の不動産がどんどん買われていて、近い将来外国の領地として旗が立つ日がくるかもしれません。昔は、戦争により領地を確保しましたが、これからは外国人が戦争ではなく、お金で不動産を買う時代になってきています。それも、円安がその手助けをしているという訳なのです。そのうえ、日本の法律では100%の所有権を持てます。しかし、日本以外の国は49%の所有権しか持てないようにして、51%を自国民が所有するようにしています。この49%と51%の差は大変な差なのですが、これはあとに譲り、北欧の旅の話に戻りたいと思います。
ヘルシンキの空港に降りたって驚いたことは、昔は日本メーカーのナショナルやソニー等の看板が常設されていたのに、そのような看板が一切なく、中国や韓国企業の看板がちらほら見えるようになったことです。ここにも日本の衰退が伺え寂しい限りです。
そして、すぐにトランジェットでヘルシンキからコペンハーゲンへ飛びます。約2時間で着き、初日は一日中移動でした。飛行中の睡眠も若い頃と違ってあまりとれないままコペンハーゲンに到着し市内観光をしました。このスケジュールで寝ずに観光ができるなんて若い証拠なのかもしれませんね?
コペンハーゲンの街並みは静かなで落ち着いた雰囲気です。信号機が少ないからなのかもしれません。また、北欧の街中は15度~17度ぐらいで、暑い日本の夏と比較しても湿気が少なく、今が実に過ごしやすい気候でした。そして、これからが寒い冬の季節を迎えるそうです。
さあ、これから船旅でフィヨルドへ向かいます。乞うご期待!!
ラブ小松! 不動産遊民
都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)
令和5年8月24日から9月4日の12日間、久しぶりに海外旅行に行ってきました。コロナ禍以来の海外で、行き先は北欧4ヶ国、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、デンマークです。北欧は日本の猛暑に比べて涼しく、6~17度ぐらいの気温で、湿気が少なく過ごし易さは抜群で、12日間は、移動の2日を除くと実質10日間の旅でした。4ヶ国とも人口が日本より少なく、スウェーデンで、約1,000万人で、首都に100万人程が集中しているようです。
ヘルシンキの空港に降り立つと、日本の町並みのようにコセコセ、ガサガサしていなくて、実に落ち着いた良い街並みでした。最初は、人口が少なくて広々とした敷地がそう感じさせるのかと思ったのですが、旅をするうちに政策の大きな違いに気付きました。それは、幹線道路が広すぎないことです。
また、交差点が十字路ではなく、ほとんどが信号機のないラウンドアバウトのため、信号待ちせずに、ノンストップで通行できることです。
北欧4ヶ国すべてが同じで、車の流れがスムーズで、バスも早く目的地に着けたようです。交差点の交通信号機は設備投資が非常にかかり、1交差点につき1千万円以上と言われます。そのうえ、ランニングコストの、修繕費、電気料(1年間に全国で120億円のデーターがあり)が必要です。ラウンドアバウトを設置するには、敷地が多く必要です。日本の交差点のように敷地があまり広くないところは、信号機設置の方が最初は良いように思われますが、ランニングコストは比較にならない程です。将来人口が少なくなった時のランニングコストは誰が負担するのだろうと心配になります。
そのうえ、車が停止、発進することにより、排気ガスが通常運転よりはるかに多くなるため、環境には非常に悪いです。排気ガス規制で車の改善も不可欠ですが、交通網の整備も必要だと思います。また、信号待ちの時間がかかります。我々は国内では慣れてしまい気にしていないようですが、私はイライラして、ストレスが溜まります。そのうえ信号機がローテーション化されて、交通渋滞が少しでも緩和されると良いのですが、そこまで至っていないのが現状です。交通事故が起こるたび、地元の陳情により警察庁交通局が許認可している状況です。安全性のみを考え、車の流れはおざなりになり、経費のかかる信号機ばかりの道路ができています。
小松駅前の道路を見れば一目瞭然だと思います。道路幅のみが広くなり、信号機がないと渡れなくなって、お年寄りが横断歩道を渡りきる前に信号が変わってしまい、道路の真ん中で右往左往している姿が見受けられます。これにより、街歩きができなくなり、生活圏を分断しています。私は、駅前の道路にもラウンドアバウト設置が可能だったと思います。ラウンドアバウトを設置できるにもかかわらず、設置しない交通行政に異議を唱えます。将来子どもたちが大きな負担を強いられる行政を私は反対します。この事態に危機感を持っているのは私だけでしょうか?海外へ行ってみてください。環境重視のほとんどの先進国はラウンドアバウトですよ!
私は北欧4ヶ国を旅して、どの国の人々も実に落ち着いた国民性だと思いました。社会保障制度が充実しているのが理由だとも思いますが、そればかりではなく、交通システムが充実しているのも一要因かなと思います。北欧4ヶ国の旅行記は次回以降に譲ります。乞うご期待!!
ラブ小松! 不動産遊民
都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)
小松市の道路行政について、以前も意見を申し上げましたが、再度、指摘したいと思います。
本折町から龍助町の道路が、歩道を分離して新造されましたが、あれが改良と言えるのでしょうか?住民にとって非常に使いにくく、また、我々通行人にとっても実に通行しにくい改良、いや改悪と言われる改造だと思うのです。
まず、道路の無電柱化です。どうして本折町から龍助町間だけが無電柱化されるのか?何の基準によって成されているのか、これから街中は全て無電柱化されるのか?どんな流れになっているのか?とても興味があります。
次に歩道です。縁石をつけたばかりに、道路に面した家は、アプローチがしにくい状況になっていると思います。特に車庫への車の出し入れはしにくいと思います。また、縁石の歯抜けのようなガタガタさは実に使いにくいものです。
ところで、歩道の縁石は必要なのでしょうか?歩いている人が危険だからなのでしょうか。もし危険だとしたら、他の地域は危険ではないのでしょうか?事故が起きる可能性があることは分かります。ほとんどありませんが。しかし、縁石があることにより、けつまずいたり、車が交差しにくい状況になっていることも事実です。
私は、街中の歩道には縁石は必要ないと思います。国道や県道など、車のスピードが出やすい道路には、歩道が必要かもしれませんが、街中を走る道路には必要ないと思います。逆にスピード規制をすればよいのではないかとさえ思います。
私は、都市計画において縁石の必要がないと決めるべきではないかと思います。設置されることで、生活しにくくなるような縁石は不要だと思うからです。試しに私の事務所(小松市小馬出町)の前の通りと、龍助町の通りを比較してみれば、一目瞭然です。行政マンは、もっと真剣に道路行政に取り組んでほしいと思います。
私は事業をしていて、常に投資と効果について意識しています。一つの例ですが、自社で開発した宅地(大聖寺の福の杜、85区画分譲地)の交差点では、信号ではなくラウンドアバウト(環状交差点)を取り入れました。行政から許可が下りるまで、一年もかかりました。ラウンドアバウトでは事故が起こりやすいのではないか、という杞憂からです。しかし、信号を設置しない交差点にと工夫した一時の投資で、非常に効果があったと思います。是非一度見にきてもらいたいと思います。今では、そこを利用する大聖寺の住民はすいすい通行しているようです。イギリス、ドイツ、アメリカなどの欧米諸国では、ラウンドアバウトが広く普及しています。初期投資は大きいですが、ランニングコストがほとんど必要なくなり、便利です。
小松市の行政マンも、ここに投資をしたら、その効果はいか程だろう、この投資は市民の為になるのだろうか?少しでも市民の生活がし易くなるのだろうか?等を常に考えていかねばならないと思います。担当者が真剣に検討し、他の優良地域を視察し、研究し、良い事柄をどんどん採用していく見識が求められます。そして悪しき事業を廃止し、良い事業を取り入れる街づくりをしていかねばなりません。その柔軟性こそが求められ、常に改善をしていく為に行政マンの能力を高めねばなりません。お互い頑張って小松の町を良くしましょう。(左:龍助町、右:小馬出町)
不動産遊民
都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)
先日、私の幼馴染の親友が亡くなりました。彼とは小学校から一緒で、中学は別でしたが、高校は同じで、青春時代を共に過ごした仲です。一緒に語り合い、酒を飲み交わし、仕事もし、実に頼もしき友でありました。
自分の同級生が亡くなるというのは実に寂しく、自分も死をとらえる年に近づいているという思いが、ひしひしと感じられました。自分の生き様はこれでいいのか?自分らしく生きているのか?と、つくづく考えさせられました。
日本人の平均寿命は、女性は88歳、男性は82歳です。その上健康寿命というものがあり、女性は75歳で、男性は72歳と言われています。この健康寿命というのは、自分の頭で考え、自分の体を使って通常の生活を送れる期間のことだそうです。
私は76歳で、健康寿命を過ぎています。最近、物覚えが悪くなっています。子どもの頃ならスッと頭の中に入っていたことが、今では何回も繰り返すことで、やっと覚えられる次第です。また、話す上で言葉が次から次へと出てこない時、あれ何やったろう、と時間をかけると、やっと出てくることがあります。
これも年齢のせいかな、とも思いますが、私は、脳の引き出しが多くて、その引き出しを探すのに時間がかかっているからだと思うようにしています。年齢による脳の衰えのせいにせず、世の経験の積み重ねが多いせいだと。
しかし、確実に時代は変わっています。ちょっと前まで頑張っていた方が、最近は顔を見ないなと思うと亡くなっていたり、世の中の構成がどんどん変化しているような気がします。亡くなった親友も、社会の一線で大活躍され、3年程前から顔を見ることが減り、気遣っていたところ、突然の訃報でした。その人その人がそれぞれの人生で積み重ねてきたものが、突然この世から消えてなくなるのです。次の世代に、その思いは引き継がれていくものの、遺された人の人生が始まり、故人に対する記憶は次第に薄れていき、二代程経るとなくなり、故人が精一杯生きた人生は全くなくなってしまうことになるのです。人間の歴史は、何千年、何万年とその繰り返しです。その人の学歴、人生、財産等もすべて雲散霧消してしまうのです。後に遺されたものが、どう使うかによって、生きるか、生かされるか、死ぬかしてしまうのです。
要するに、財産等は遺された人によって、どう生かされるのか、どう遺していくべきなのか、ではないかと思います。そう考えると、物ではなく、自分がどう生きたかという意志がとても大切であり、伝えるべきことではないかと思います。
遺された私達は、その意志を後世に伝えていくことが、この世に生きるということではないでしょうか?昔こんな年寄りが、先祖がいたんや、と語られることが大切かもしれません。
今の世の中は非常に早く進み、人々の記憶も早く薄れがちです。しかし、何世代にわたって語り継がれていけば幸いです。今回、親友の突然の訃報に接し、少し感傷的になり、人生、死というものについて改めて考えてみました。死を覚悟することは、忌避すべきでなく、死は誰にでも平等に訪れ、避けることのできない人生の一大一幕です。常に死を意識した悔いのない生き方をしましょう。
不動産遊民
都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)